日映設立計画とは? わかりやすく解説

日映設立計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 02:04 UTC 版)

三宮四郎」の記事における「日映設立計画」の解説

1957年昭和32年)には映画事業拡大目指し大映専務曾我正史千土地興行社長松尾國三らと共同映画製作会社日映」(同名1941年設立日映とは無関係)の設立に動く。京王が4億円を出資し聖蹟桜ヶ丘駅付近に撮影所建設する計画であった。しかし、京王本業以外への過剰投資憂慮し東急五島慶太会長猛反対遭い、さらに当時運輸大臣宮沢胤勇も、京王申請していた鉄道事業対する7億円の政府融資却下言及する事態となる。その結果京王日映への出資取り止めた。このとき三宮失踪事件引き起こし京王社長事実上更迭された。[要出典] 三宮生真面目人物で、堅物口数少なく愛嬌もない性格であった。そのため堅実な三宮が、映画製作という「水商売」に参画表明したとき周囲驚いたという。日映事件の際に、東急会長五島慶太三宮呼び子会社東映再建苦労話聞かせて断念迫ったが、三宮は「彼ら(曾我松尾)に義理がある」と言い張り聞く耳を持たなかった。すると五島は「30年に及ぶ俺との義理より、昨日今日義理重んじるのか」と激怒しさすがに三宮折れざるを得なかった。三宮五島意向加え宮沢胤勇運輸大臣京王への政府融資却下言及したことで、同じく政府融資申請であった東急東急系の小田急京急問題波及することを恐れ日映からの撤退追い込まれた。宮沢運輸大臣動かしたのは、曾我裏切られ格好になった大映社長永田雅一政界工作よるものと言われている。 日映設立計画した際、曾我松尾は「東急五島慶太会長承諾得ているのか」と訊ねると、三宮は「それは問題ない」「いつまで京王子供ではない」と応じた東急時代同僚であった大川博東映再建成功させ、東急ナンバー2登りつめたことに対し三宮に強いライバル意識があったとも言われる日映への出資断念したとき三宮失踪騒ぎ起こすが、義理固い人物であり、騒動収束のためきちんと曾我松尾対面し謝罪の上京王社長引責辞任することを伝えている。[要出典]

※この「日映設立計画」の解説は、「三宮四郎」の解説の一部です。
「日映設立計画」を含む「三宮四郎」の記事については、「三宮四郎」の概要を参照ください。

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