日映設立計画
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1957年(昭和32年)には映画事業の拡大を目指し、大映専務の曾我正史、千土地興行社長の松尾國三らと共同で映画製作会社「日映」(同名で1941年設立の日映とは無関係)の設立に動く。京王が4億円を出資し、聖蹟桜ヶ丘駅付近に撮影所を建設する計画であった。しかし、京王の本業以外への過剰投資を憂慮した東急の五島慶太会長の猛反対に遭い、さらに当時の運輸大臣宮沢胤勇も、京王が申請していた鉄道事業に対する7億円の政府融資の却下に言及する事態となる。その結果、京王は日映への出資を取り止めた。このとき三宮は失踪事件を引き起こし、京王社長を事実上更迭された。[要出典] 三宮は生真面目な人物で、堅物で口数も少なく愛嬌もない性格であった。そのため堅実な三宮が、映画製作という「水商売」に参画を表明したとき周囲は驚いたという。日映事件の際に、東急会長の五島慶太は三宮を呼び、子会社の東映再建の苦労話を聞かせて断念を迫ったが、三宮は「彼ら(曾我や松尾)に義理がある」と言い張り聞く耳を持たなかった。すると五島は「30年に及ぶ俺との義理より、昨日今日の義理を重んじるのか」と激怒し、さすがに三宮も折れざるを得なかった。三宮は五島の意向に加え、宮沢胤勇運輸大臣が京王への政府融資の却下に言及したことで、同じく政府融資を申請中であった東急や東急系の小田急や京急に問題が波及することを恐れ、日映からの撤退に追い込まれた。宮沢運輸大臣を動かしたのは、曾我に裏切られた格好になった大映社長永田雅一の政界工作によるものだと言われている。 日映設立を計画した際、曾我や松尾は「東急の五島(慶太)会長の承諾を得ているのか」と訊ねると、三宮は「それは問題ない」「いつまでも京王は子供ではない」と応じた。東急時代の同僚であった大川博が東映再建を成功させ、東急のナンバー2に登りつめたことに対し、三宮に強いライバル意識があったとも言われる。日映への出資を断念したとき三宮は失踪騒ぎを起こすが、義理固い人物であり、騒動収束のためきちんと曾我や松尾と対面し、謝罪の上で京王社長を引責辞任することを伝えている。[要出典]
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