新開地の造成から戦前までとは? わかりやすく解説

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新開地の造成から戦前まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/14 14:17 UTC 版)

出汐 (広島市)」の記事における「新開地の造成から戦前まで」の解説

江戸初期広島湾頭の遠浅干潟に過ぎなかったこの地区は、1662年寛文2年)から翌1663年にかけて行われた仁保西新開の造成により、近隣皆実町・旭・翠などとともに新たな埋め立て地となった仁保西新開はのち「皆実新開」と改称され明治維新後には皆実1889年明治22年)の広島市施行後は同市の(大字皆実属することとなった日清戦争開戦とともに軍港である宇品港への軍事輸送のためにこの地区縦断して国鉄宇品線敷設され、また戦後比治山以南地域軍事施設設置が進むなか、この地区にも広島陸軍被服支廠設置1904年)された。昭和期入って被服支廠などへの通勤のため、地区内(現・出汐3丁目付近)に宇品線の上大河駅開業、さらに2年後1932年には町域接す霞町陸軍兵器支廠通勤のため現在の出汐1丁目に比治山駅開業された。そして、それまで皆実町1916年改称)の一部当時皆実町東上組」と称された)であったこの地区は、1933年になって初めて「出汐町」として分立した。戦前のこの時期出汐町大半工場倉庫建ち並ぶ被服支廠敷地によって占められ、その周囲蔬菜・麦・レンコンなどが栽培される近郊農業地域であった1945年8月6日原爆投下に際して爆心地から2.5km強の位置にあった出汐町は、北半部が比治山陰に入っていたなどの要因があって半壊地域とされているものの被害比較小さかった

※この「新開地の造成から戦前まで」の解説は、「出汐 (広島市)」の解説の一部です。
「新開地の造成から戦前まで」を含む「出汐 (広島市)」の記事については、「出汐 (広島市)」の概要を参照ください。

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