新長谷寺と目白不動尊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:38 UTC 版)
「金乗院 (豊島区)」の記事における「新長谷寺と目白不動尊」の解説
新長谷寺(しんちょうこくじ)は、山号を東豊山(とうぶさん)といい真言宗豊山派の寺院であった。当寺院にあった不動明王像は唐から帰ってきた弘法大師(空海)が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像で、それが武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれているがその詳しい年代はわかっていない。その後、この寺院は江戸時代に入り元和4年(1618年)に奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興された。秀算は二代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名した。寛永年間に三代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名を贈り、以後この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになったという。また一帯の高台も目白台と呼ばれるようになった。(これは現在の地名になっている目白や目白台の起源になっている)その後、この寺院は五代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けて発展した。また江戸市民に時を告げる時の鐘を備えていた。しかし、新長谷寺はその後第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺となってしまった。本尊の目白不動は金乗院に移され、現在に至るまで金乗院が目白不動尊として信仰を得るようになっている。
※この「新長谷寺と目白不動尊」の解説は、「金乗院 (豊島区)」の解説の一部です。
「新長谷寺と目白不動尊」を含む「金乗院 (豊島区)」の記事については、「金乗院 (豊島区)」の概要を参照ください。
- 新長谷寺と目白不動尊のページへのリンク