新幹線建設決定まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:22 UTC 版)
新幹線建設の中心人物となる十河信二が1955年(昭和30年)5月に総裁に就任した。昭和30年代になって貨客輸送量の増大に伴い東海道線の増強が必要なことは明らかであったが、その方式については十河の推す広軌別線論だけでなく狭軌増設論、狭軌別線論、モノレール論など国鉄上層部の中でも意見が分かれていた。 1957年(昭和32年)5月30日に銀座山葉ホールで、鉄道技術研究所創立50周年記念講演会が「超特急列車、東京 - 大阪間3時間への可能性」と題して一般の人にも公開して行われた。これは篠原武司所長の発案で、それまでばらばらに行われていた基礎研究が「鉄道輸送の高速度化研究」としてまとめられ、それまでの基礎研究をまとめれば広軌(標準軌)新線ならば時速250kmの速度で東京 - 大阪間を3時間で結ぶことが技術的に可能であるとして報告された。 この講演会には賛否両論が巻き起こったものの、これを契機として国鉄内部でも世論でもこの広軌別線案が力を得るようになる。1957年(昭和32年)7月には国鉄本社に新幹線調査室がおかれ、東海道線の増強について具体的な調査がはじまった(室長は後に新幹線総局局長となる大石重成)。1957年(昭和32年)8月、運輸大臣の諮問機関、日本国有鉄道幹線調査会が設けられ、1958年(昭和33年)7月、幹線調査会は「広軌別線」を5カ年で建設すべきと答申した。 1959年(昭和34年)度予算で30億円の東海道幹線増設費が認められ 運輸省の工事認可(東京・大阪間線路増設工事運輸大臣認可)も下りた。
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