新ロシア開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:33 UTC 版)
解放後、ロシア中央部から辺境へ大規模な移住がおこった。1860年代、新ロシアへ移住した者は約20万人に達し、これが1871-1916年の間に120万2000人ともなった。人口増が顕著であったのは、タヴリダ、ヘルソン、ドニプロであった。タヴリダ県北部へドイツ人が入植するにあたっては、ロシア政府によって一定面積の土地が割り当てられた。たとえば、ベルジャンスク郡に移住したメンノー派入植者は、農戸あたり65デシャチナの土地を受け取った。主としてメリトポリ郡へ入植した他のドイツ人も、農戸あたり60デシャチナを受け取った。ドイツ人移住者の15-20%は土地をもたず、農業以外の仕事をしていた。ヘルソン県でも、特に南部に多数のドイツ人が入植した。オデッサ郡のドイツ人入植者は、全部で12万9353デシャチナの土地を政府から受け取った。それに加えて、彼らは貴族の大土地所有者から7万6652デシャチナの土地を購入した。 このようにドイツ人入植者はロシア政府から特別の保護を与えられた。ブルガリア人・ユダヤ人入植者も、ドイツ人とほぼ同様の保護を与えられた。ブルガリア人の場合、1861-63年にダヴリダ県北部へ入植した者で、妻帯している者に対して各々50デシャチナの土地が国から与えられた。マリウポリでも外人に多くの土地が分与された。 ドイツ人入植者は1860年代初頭まで牧羊に従事していた。その後は耕作するようになった。1870年代になると彼らはダヴリダ県北部を中心に独自の穀物栽培方法を形成した(農具の全体改良、施肥休閑地、収穫即時脱穀)。こうして2-3人という労働力で、従来の20-30デシャチナから40-60デシャチナも耕作できるようになった。鉄道・港湾が整備され、穀物は食べる分が残るかどうかに関係なく輸出される構造ができていた。生産力は否応なしに向上し、ドイツ人入植者に富をもたらした。なかんずく1880年代は入植者による土地購入が盛んであった。ロシア人農民はドイツ人の成功例をみてから土地を購入するようになった。 新ロシアへ投資をしていたのはドイツだけではなかった。フランス鉱業資本との緊張は露仏同盟につながった。
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