敦賀藩の歴史とは? わかりやすく解説

敦賀藩の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 23:47 UTC 版)

敦賀藩」の記事における「敦賀藩の歴史」の解説

敦賀藩天和2年1682年)、小浜藩第2代藩主酒井忠直次男の忠稠が、父の遺言基づいて遺領のうち越前敦賀郡近江高島郡の内において1万石を分与されたことに始まる小浜藩支藩である。しかし敦賀郡のほとんどは小浜藩領であり、敦賀藩とはいっても敦賀郡一部領しているにすぎなかった。貞享4年1687年)春、赤崎の塩込を鞠山改称し陣屋設置したこのため、この藩は鞠山藩とも呼ばれている。 歴代藩主江戸定府が常であり、領国支配本家小浜藩担っていた。そのため、陣屋実際に利用していたのは、少数役人のみであったと言われている。第4代藩主酒井忠香時代宝暦9年1759年)、敦賀藩形式上本家小浜藩支配から独立したとなった。しかし敦賀藩では財政難相次いだこのため第7代藩主酒井忠毗(ただます)時代安政6年1859年10月、再び本家小浜藩所領返還しようとする動きがあったが、領民猛反対したため中止せざるを得なくなった。忠毗は若年寄務めた功績により文久元年1861年9月に1080石を加増され、翌年6月には城主格与えられる至った。しかしこのため藩主による参勤交代義務生じ、さらに財政難拍車かかった。 忠毗は佐幕立場であったが、慶応3年1867年6月忠経家督譲って隠居した。翌慶応4年明治元年1868年)の戊辰戦争においては新政府側に与し北陸道鎮撫使先鋒役を務めた明治元年1868年6月京都において藩士5人が家老らを殺害する事件鞠山騒動)が発生した明治2年6月24日1869年8月1日)、版籍奉還が行われた。翌明治3年1870年3月敦賀藩藩名正式に鞠山藩改称し同年9月にその所領小浜藩併合された。翌明治4年1871年)の廃藩置県で完全に廃藩となり、その所領小浜県となり、その後敦賀県滋賀県経て明治14年1881年2月福井県編入された。 名門若狭酒井家支藩であっただけに、歴代藩主多く大番頭奏者番寺社奉行若年寄大坂城番などの幕府要職務めるなど、小藩ながらその存在大きく見られていた。

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