敦賀藩の歴史
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敦賀藩は天和2年(1682年)、小浜藩の第2代藩主酒井忠直の次男の忠稠が、父の遺言に基づいて遺領のうち越前敦賀郡・近江高島郡の内において1万石を分与されたことに始まる小浜藩の支藩である。しかし敦賀郡のほとんどは小浜藩領であり、敦賀藩とはいっても敦賀郡の一部を領しているにすぎなかった。貞享4年(1687年)春、赤崎の塩込を鞠山と改称して陣屋を設置した。このため、この藩は鞠山藩とも呼ばれている。 歴代藩主は江戸定府が常であり、領国の支配は本家の小浜藩が担っていた。そのため、陣屋を実際に利用していたのは、少数の役人のみであったと言われている。第4代藩主酒井忠香時代の宝暦9年(1759年)、敦賀藩は形式上本家小浜藩の支配から独立した藩となった。しかし敦賀藩では財政難が相次いだ。このため第7代藩主の酒井忠毗(ただます)時代の安政6年(1859年)10月、再び本家小浜藩に所領を返還しようとする動きがあったが、領民が猛反対したために中止せざるを得なくなった。忠毗は若年寄を務めた功績により文久元年(1861年)9月に1080石を加増され、翌年6月には城主格を与えられるに至った。しかしこのため、藩主による参勤交代の義務も生じ、さらに財政難に拍車がかかった。 忠毗は佐幕の立場であったが、慶応3年(1867年)6月に忠経に家督を譲って隠居した。翌慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争においては新政府側に与し、北陸道鎮撫使の先鋒役を務めた。明治元年(1868年)6月、京都において藩士5人が家老らを殺害する事件(鞠山騒動)が発生した。 明治2年6月24日(1869年8月1日)、版籍奉還が行われた。翌明治3年(1870年)3月、敦賀藩は藩名を正式に鞠山藩と改称し、同年9月にその所領は小浜藩に併合された。翌明治4年(1871年)の廃藩置県で完全に廃藩となり、その所領は小浜県となり、その後敦賀県・滋賀県を経て、明治14年(1881年)2月、福井県に編入された。 名門若狭酒井家の支藩であっただけに、歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、寺社奉行、若年寄、大坂城番などの幕府要職を務めるなど、小藩ながらその存在は大きく見られていた。
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