教育などとのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:19 UTC 版)
桐朋学園は、敗戦直後、在野の有力楽壇人が音楽の早期一貫教育を目指し、1948年(昭和23年)、東京家政学院の焼けビルに発足した子供のための音楽教室に端を発するが、一貫教育の建前から52年には高校が必要となり、高校創設のため先生や父兄の一部が動くが、一向に実現に至らなかった。このため、それを見かねた江戸が妻の弘子も講師の一人、娘たちも生徒であったこともあり、人肌脱ぐことにした。 江戸は水高同級の柴沼が当時、東京教育大学学長で桐朋学園理事長を兼ねていたことから、学校創設の件を相談したところ、仙川の桐朋女子高等学校の空き教室を提供してもらえることになり、女子高校主事だった生江義男(のち桐朋学園理事長)の全面協力を得て、高校に音楽科が設置された。これが現在の桐朋学園大学のルーツである。江戸は柴沼の死去後、理事長を担い、桐朋音楽科の後見人として政財界や建築業者へのパイプ役を務めた。 また後任難の理由で東京家政学院の理事長も引き受け、同校が町田市に四年制大学を創設しようとした際、市長が社会党でまったく問題にされなかったが、江戸が旧知の成田委員長に申し入れたところ、一転して前向きに援助が行われ、東京家政学院大学が開学した。 戦時中の疎開先を軽井沢に求めた縁から野鳥に関心を持ち、日本野鳥の会に入会。同会が財政危機に陥った際、水高後輩で同好の法華津孝太(極洋捕鯨社長・山階鳥類研究所専務理事)、と語らい再建に協力、理事陣に参加した。
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