教員・記者としての経験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 08:27 UTC 版)
1937年、盧溝橋事件が勃発すると、日本は軍国主義を強め、台湾では植民者による皇民化政策・運動が広まり、より一層厳しい統治政策が始まった。そんな中、1940年に新埔で行われた運動会では、日本国籍の視学官が台湾教師に暴力を振るうという事件が起きる。その姿を見た呉濁流は、台湾人として、この上ない憤りを感じ、自らの教師生活に幕を閉じた。この経緯に類するものが、『アジアの孤児』の作品の中でも書かれている。教師生活に終わりを告げた呉濁流は汪兆銘政権下の南京に行き、『大陸新報』の記者となった。そこでの同胞との出会いから「中国人ではない台湾人」というジレンマを抱えた呉濁流は、『南京雑感』を執筆する。中国人でも日本人でもない「台湾人」の、双方から信用されないというアイデンティティの矛盾は、後の作品で重要なテーマとなる。そして1941年真珠湾攻撃が勃発し、日本人は勝利の喜びに陶酔した。しかし呉濁流は、日本敗戦の可能性を敏感に察知し、故郷である台湾に戻った。
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