改憲案の否決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:31 UTC 版)
これまで超然主義を貫き政党無用論をとっていた李承晩大統領は、大統領選挙を国民による直接選挙に改正することを契機に自身を支持する政党として自由党を組織した。そして1951年11月30日に、大統領直接選挙制と二院制導入を柱とした政府の憲法改正案を国会に提出した。しかし、翌52年1月18日の国会採決で改憲案は、賛成19名、反対143名、棄権1名(出席議員163名)の圧倒的な大差で否決された。改憲案が否決されると、李承晩支持派の院外自由党や大韓青年団、国民会議などは、傘下組織に指令し、「改憲否決反対抗議民衆大会」を開催して署名運動を展開する一方で、国会議員のリコール運動にも乗り出した。また李承晩大統領は2月16日に談話を発表して国会議員のリコールを仕向け、これに呼応する形で2月18日には院外自由党傘下の組織による大統領直接選挙制と国会議員リコールを求める大規模デモが行われた。 こうした事態に対し、野党の民主国民党(民国党)や反李承晩派に転じた院内自由党、民友会などの野党勢力は、連携して従来から主張してきた責任内閣制への改正を盛り込んだ憲法改正案を、52年4月19日に在籍議員三分の二余の署名を得て国会に提出した。これを受けて張勉国務総理は辞任を表明、翌20日に解任された。野党は6月2日の国会で張勉を大統領に選出し、すみやかに責任内閣制改憲を断行する構えをみせた。そうした中、政府は張勉の後任として国会でキャスティングボートを握っていた新羅会を率いる張沢相国会副議長を国務総理に指名し、新羅会の取り込みを図った。結果、5月6日の国会における投票で国務総理任命案は95対81で承認され、国会内における責任内閣制改憲派の結束に亀裂が生じ始めた。これを受けて政府は張沢相国務総理の承認から一週間後の5月14日に再度、大統領直接選挙制改憲案を国会に提出した。
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