探偵小説の発表と「探偵小説芸術論争」
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「木々高太郎」の記事における「探偵小説の発表と「探偵小説芸術論争」」の解説
上記の通り科学知識普及会評議員となった木々は、同僚評議員であった海野十三を知る。木々は海野や南沢十七の勧めもあり、「木々高太郎」の筆名で『新青年』11月号に短編探偵小説「網膜脈視症」を発表する。これが木々の探偵作家としてのデビューとなり、以降、「睡り人形」「青色鞏膜」など『新青年』へ数々の短編を発表する。 1934年から1935年(昭和10年)には、甲賀三郎が『新青年』及び『ぷろふいる』誌上において、本格的探偵小説の非芸術性を主張し、「本格探偵小説」は文学性よりも探偵的要素を重視したものであり、探偵趣味を含んだ「変格探偵小説」は「本格探偵小説」から区別されるべきものであるとする「探偵小説芸術論」を提唱した。これに対して木々は、1936年(昭和11年)3月に『ぷろふいる』第4巻第3号において論説「愈々甲賀三郎氏に論戦」を発表、謎に対する論理的思索とそれによる謎の解決を探偵小説の要素であるとし、探偵小説の芸術性を主張した(探偵小説芸術論争)。また、甲賀との論争を受けた1936年(昭和11年)には持説の「探偵小説芸術論」を実践した作品として、『新青年』に「人生の阿呆」を発表する。
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