戦時中、スマトラでの放送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:34 UTC 版)
陸軍による南方の日本軍占領地での放送局開設計画により、山本は1942年11月スマトラへと派遣されるが、最初に降り立ったパレンバンでは、現地の軍司令部が空襲を恐れて放送局づくりに消極的だった。そのために暇を持て余していた山本は芝居小屋通いを続けるうち、インドネシア語は日常会話に不自由しないレベルにまで達していた。 参謀部の移駐に伴いパダンに移ると、西海岸州長官・矢野兼三の理解と協力により、1943年4月に放送局が開設した。さらに1944年10月にはメダンに移る。語学の才に長けた山本は現地人の職員の間でも人気があり、日本人8人とインドネシア人職員の分担により順調な放送業務をこなしていたという。 メダンの放送局に来て以降の山本は、局長室にこもって連合国軍側の短波放送を聞いて戦局を把握していた。軍の師団長・州政府長官・放送局長のみ、この放送傍受が認められていたからである。中でもニューデリーから発する日本語ニュースの時事解説は、日本国内では知ることのできない戦局の詳細な推移が分かったのである。 太平洋戦争終結を迎える1945年8月14日、翌日に重大放送があるとの報を受けた山本は現地インドネシアの放送でその告知を行った。しかし、未明になって近衛第二師団から放送をしないようにとの要請があり、翌15日正午には「都合により取りやめとなった」と放送した。山本は中止の告知を放送した後、東京発の短波放送で玉音放送を聞き、日本の降伏を知った。その後メダン在住の主だった日本人20数人を東海岸州官邸に集め、インドネシア人の立ち入りを厳禁した上で放送内容を説明した。
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