戦後ペレストロイカまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:30 UTC 版)
1950年6月の朝鮮戦争勃発にともなう米ソ関係の悪化で、社会主義陣営はその米国にあった資産をすべて、北欧商業銀行とナロードニキ銀行(Moscow Narodny Bank Limited)ロンドン支店に避難させた。2行は食糧買いつけのため、1963年から2年、約500トンの金を放出した。ドルショックのときは外貨を借り入れてしのいだが、1978年から1982年にかけて不作にみまわれ、再び金を売りに売った。 1961年1月、外国貿易銀行は外国為替専門銀行になった。外国貿易銀行は業務が限定されていたので、主な外国為替・金融業務はゴスバンクの一部局が処理していた。この部局が専門銀行へ移管されたのである。こうして専門銀行は、ゴスバンク・自行系列の在外銀行と連携して政府の貿易金融を担った。 専門銀行が1987年にソ連対外経済関係銀行(Vnesheconombank, 通称ロシア開発銀行)となった。 ロシア開発銀行は公企業と連携し多くの系列銀行をつくった。それらには特権が与えられ、ソ連政政府から安く資金を借りて起業者に高利で貸し出した。ロシア開発銀行の資金は、出所が政府だけではなかった。ロシア開発銀行は政府の貿易金融を担ったというより、ソ連国内輸入者と国際金融市場を仲介した(定款を参照)。それに越権してまで資金を西欧の銀行に頼った。利ざやはどこへやら、1991年末のソビエト連邦の崩壊時にロシア開発銀行は650万ドルの債務不履行に陥っていた。
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