念仏橋の戦いとは? わかりやすく解説

念仏橋の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)

出流山事件」の記事における「念仏橋の戦い」の解説

12月11日鍋山村本部では、栃木宿資金要求行った5名を心配し応援派遣することになった西山尚義田中光次郎荒川清之丞、河野渡辺勇次郎大竹市太郎富永甚太郎大谷国次の8名がそれに選ばれ鍋山出発した。ただしこの際面々については、西山尚義従者1名(山本鼎)の2名ともされ、この場合山本押田屋にいなかったことになる。 栃木陣屋ではそれを把握すると、愿火事教訓活かし、善野率い陣屋要員町民兵、渋谷木村率い農兵隊や、吹上藩からの応援部隊動員して交戦防火準備進めた。町の東西南北にある4つ木戸口閉め、特に西側木戸口念仏橋、後の幸来橋のたもとにあった)では竹矢来を組むなどして、守り固めた暮れ方西山はじめとする応援部隊は、西の木戸口にたどり着いて開門申し込んだ木戸番石川久三によって門はただちに開かれたが、西山ら4名が入ったところで門が閉められ二分された部隊町民兵たちが迎撃した。西山振るい、血を浴びながら奮戦したものの、やがて力尽き、馬から引きずり降ろされてとどめを刺された。8名のうち、西山荒川富永討死し、大谷生き残って本部帰還、その他は生死不明となった。 「西山山本の2名のみ」とする記述では、いずれも両名討ち死にしたとされている。幕府軍の兵は西山首級掲げ群衆示したという。 この戦いの際、城内村(現栃木市城内町)の名主の子であった大沢亀之助(当時19歳とされる)は、陣屋側の士に加わって西山に斬りかかっていったが、かなわず巴波川落ちた。そこから這い上がろうしたものの、暗がりの中だったため、町の人々は大沢のことを出流天狗だと勘違いし殺害してしまったという。そのまま晒し首になるまで気づかれなかったという記録もある。

※この「念仏橋の戦い」の解説は、「出流山事件」の解説の一部です。
「念仏橋の戦い」を含む「出流山事件」の記事については、「出流山事件」の概要を参照ください。

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