押田屋の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)
応援部隊を駆逐した町民兵と幕府軍は、押田屋に宿泊中の5名も同時に討伐した。5名は銃声と鬨の声を聞きつけて押田屋を飛び出したところ、往来で襲撃を受けた。主人を失って念仏橋から走ってきた馬があったため、高橋はそれに跨って逃亡、念仏橋の木戸が開いていたため脱出に成功した。山本も姿をくらまして鍋山村に帰還したが、ほかの3名は戦死したとされる。 以上2つの戦いがあったが、これらの戦いは押田屋の戦い→念仏橋の戦いの順で行われたとする記録もあり、栗原 1943 や 日向野 1974 などはそれを採っている。これらによれば、押田屋襲撃の非法を詰るために町へ乗り込んだ西山らが、念仏橋において(または栃木陣屋で)戦死したとされる。 西山らの遺体は斃馬の捨て場に放置され、その後墓碑が建てられた。 栃木町に残された遺体は9体となり、何人が逃亡したか不明のため宿中が捜索された。またその日は夜を徹して敵の襲撃や放火を警戒し、付近の村々も同様にしたが、何も起こらなかった。同夜、渋谷は手勢三十余名を率いて安蘇郡小中村(現佐野市旗川地区小中町)名主・石井郡造邸に入り、次なる戦の準備を行ったという。
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