強力なウイグル人国家: 回鶻およびカラハン朝(8世紀~1212年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/19 04:24 UTC 版)
「日本と東トルキスタンの関係」の記事における「強力なウイグル人国家: 回鶻およびカラハン朝(8世紀~1212年)」の解説
ウイグル人という民族の存在が中原に知られるようになったのは、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家「回鶻」(かいこつ/ウイグル)によってである。ことに、モンゴル草原を平定した骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は、当時玄宗皇帝が統治していた大帝国唐王朝に朝貢して、懐仁可汗(かいじんかがん)の称号を拝命した。回鶻の時代のウイグル人は、天体や鳥獣を崇拝する宗教やマニ教を信仰していた。同時代の日本は、遣唐使を送るなどしてウイグル人の回鶻と同様に唐王朝との国交を樹立していたが、当時の日本と回鶻の間で直接の交流があったか否かは定かではない。 だが、疫病や飢饉、内紛などによりモンゴル高原を根拠地としていた回鶻は急速に弱体化して、遂には840年、㕎馺特勤(こうそうテギン)が殺されてモンゴル高原における権勢を失った。その後、ウイグル人がどのような事跡を辿ったのかは詳らかでないが、9世紀の半ば以降には、ウイグル人によるイスラム王朝カラハン朝が西トルキスタンに大勢力を築くに至っていた。イスラムの制度や学問を取り入れたカラハン朝は急速な発展を見せて、ユースフ・ハーッス・ハージブによるテュルク語の長編詩『クタドゥグ・ビリグ』(幸せをもたらす知識)や、マフムード・カーシュガリーによる世界最古のアラビア語・テュルク語の辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク(ウイグル語版、英語版)』(テュルク語集成)などといった不朽の名作が誕生した。1212年、栄華を誇ったカラハン朝はホラズム・シャー朝により滅ぼされたが、そのわずか7年後の1219年には、世界帝国への道をひた走るモンゴル帝国のチンギス・カンにより、ホラズム・シャー朝もまた滅ぼされている。
※この「強力なウイグル人国家: 回鶻およびカラハン朝(8世紀~1212年)」の解説は、「日本と東トルキスタンの関係」の解説の一部です。
「強力なウイグル人国家: 回鶻およびカラハン朝(8世紀~1212年)」を含む「日本と東トルキスタンの関係」の記事については、「日本と東トルキスタンの関係」の概要を参照ください。
- 強力なウイグル人国家: 回鶻およびカラハン朝のページへのリンク