弱体化した本庄熊谷氏当主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 21:36 UTC 版)
「熊谷直経」の記事における「弱体化した本庄熊谷氏当主」の解説
延慶元年(1308年)に、父の直満から、兄の直継と所領を二分割して与えられた。元応元年(1319年)に父の直満が病死し、元亨2年(1322年)には異母兄の直継も死去、直経が家督を相続した。この相続に不満を持った直継の母は偽の書状を使って、既に亡くなって存在しない直継の子があたかも生きているかのようにでっち上げ所領の横領を企んだが、直経は父・直満が生前に孫(直継の子)が亡くなったことを嘆いた書状を示したために失敗に終わった。直経は熊谷氏宗家であったが、この頃までに熊谷氏は分裂し、その勢力は各分家に分散していた。そのため、直経も宗家であっても、一族の惣領と言える立場でもなかった。ただし武蔵国熊谷郷の知行の一部は所有していた。 なお、本庄熊谷氏が根拠地を武蔵国熊谷郷から安芸に移したのは直経であったとする説もある。これは同じ安芸の武士である小早川氏を母に持った庶子である直経は、嫡男として熊谷郷を継承していて安芸には代官を派遣していた直満や直継と異なって宗家継承以前から安芸に拠点を持っていたからと考えられているまた、元弘年間に直経がまだ武蔵国熊谷郷に本拠地を持っていたことを示唆する文書の存在を指摘して本拠地の移転を南北朝の争乱に求める見解もあるが、この説によっても武蔵から安芸に本拠地を移したのは直経の時代ということになる。なお、安芸熊谷氏の歴代当主の名乗り(仮名)も、直経以降にそれまでの熊谷直実由来の次郎(二郎)系統から、直経の小四郎に由来する四郎系統に変更されており、こちらの面でも直経の時代が熊谷氏の大きな転換点であったことを示唆している。 この頃、安芸在住の熊谷氏の中で最も勢力があったのが新庄熊谷氏であった。
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