弁論家としてのガルバ
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「セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官)」の記事における「弁論家としてのガルバ」の解説
ガルバは雄弁家としての大きな名声を得ていた。キケロによると、ガルバは「少し年下の」スキピオ・アエミリアヌスやガイウス・ラエリウス・サピエンスと比べても、その弁舌の良さで際立っていたという。サピエンスを、その精力的で説得力のある弁論のため、ガルバを好意的に見ていた。キケロは殺人罪で告訴された借家人の裁判(紀元前138年)に関する話で、このことを確認している。サピエンスは二度に渡り、素晴らしく、エレガントで、かつ入念に準備された演説を行ったが、どちらの場合も執政官は捜査の続行を命じた。このため、サピエンスは依頼人に対し。「ガルバならばもっと熱い弁論ができる」とガルバに相談するようアドバイスした。ガルバはこの依頼を「慎重に、しかし躊躇なく」次の裁判の前日に引き受けた。ガルバは何人かの協力者と共に、執政官が退出の時間と告げるまで演説を続けた。ガルバは「それぞれの区切りのところが拍手で終わるような、印象的な演説」を実施し、結果被告は無罪となった。 ガルバに演説のテクストは、少なくともリウィウスの時代(紀元前1世紀後半-1世紀前半)まで残っていた。キケロの『ブルトゥス』の主人公は、ガルバの演説は「弁論者としての力強さを感じない」と指摘している。キケロはこれらのテクストが無味乾燥なことには同意しているが、「同時代の便廊下より古典的な力強さを感じ」、ガルバには才能があったが、同時に十分な教育を受けていないため、彼の考えを文字にするのは好きではなかったと説明している。 ガルバはとある演説技術 - 遅延戦術 - を用いたローマでは最初の人物であった。紀元前167年のパウッルスに対する裁判の際には、ガルバは4時間も演説を続け、会議を夜中まで遅らせた。このようなことは、ローマでは最初のことだった。
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