弁論家のアンティポン
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「アンティポン」の記事における「弁論家のアンティポン」の解説
ラムヌースのアンティポン(紀元前480年 - 紀元前411年)は、アッティカのラムヌース区出身のアテナイ人。アッティカ十大雄弁家の1人。修辞学者、政治家。紀元前411年、寡頭派を支持し、「四百人」寡頭派体制(The Four Hundred)の樹立に大きく貢献した(しかし、このすぐに民主制が復活した)。アンティポンは反逆罪で起訴され、死刑に処せられた。トゥキディデスは『戦史』の中でアンティポンの手腕、影響力、名声について書いている。 アンティポンは政治的雄弁術の創設者と見なされることもあるが、裁判以外で、公衆に対して演説したことは一度もなかった。エジプトのパピルスに残っていたアンティポンの演説の断片は自身の政策を弁護するもので、1907年にJ. Nicoleによって校訂された。 アンティポンはロゴグラポスを主な仕事とした。これは、法廷で陳述を求められた訴訟当事者たちのために、その演説を代筆する仕事である。アンティポンの法廷弁論は15残っている。そのうち12は学校での演習に使う、架空の裁判のための法廷弁論である。それぞれの弁論は、原告側と被告側両方の演説(原告の起訴、被告の答弁、原告の反対訴答、被告の反対訴答)から成っている。残りの3つは実際の裁判に使われた法廷弁論で、いずれも殺人事件のものである。さらにアンティポンは修辞学技術(Τεχνη)を作ったとも言われている。
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