建築開始までの紆余曲折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 03:22 UTC 版)
「フンデルトヴァッサー・ハウス」の記事における「建築開始までの紆余曲折」の解説
フンデルトヴァッサーは自分は建築家ではないからと、ウィーン市に自身のコンセプトを建築図に落としこめるプロの建築家を手配するよう頼んだ。しかし、フンデルトヴァッサーがイメージした建物は、従来の建築理論と相容れない常識外れの構想であった。そして選ばれたのが、建築家ヨーゼフ・クラフィナ(Josef Krawina)である。1979年8月から9月にわたり、クラフィナは建築図面の下図と発泡スチロールの模型を示した。フンデルトヴァッサーは自分が一貫して抗ってきた、均等に整列するモジュール構成に衝撃を受けると、案をつき返した。ユーロビジョンに提出した「テラスハウス」の模型が示すように、彼が概念化した住宅は全くタイプが異なったのである。 クラフィナが去り、建築家ペーター・ペリカン(ウィーン市19部門の職員=当時)が充てられ、ようやく賛同する建築家が現れたことで6年後の1983年に建設が始まると、1986年にフンデルトヴァッサー・ハウスが完成した。専門家の中には悪趣味だという意見もあったが、入居希望者が殺到し、大評判となった。建築学科教授に転じたクラフィナは共同設計者、ペリカンはプランナーと位置づけられている。特徴としてうねりのある床を備え、屋根は土と草で覆われ、室内から外へ向かって大樹の枝が窓の外へと枝を伸ばしている。家の設計料を一切、請求しなかったフンデルトヴァッサーは、醜い建築があの場所に建つのを防げたのだから、その価値があると言い切った。 住宅内には住戸が53、事務所4軒、居室に通じるテラス16箇所、共有部のテラス3箇所に加え、高木と低木が合計250本植栽された。
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