建築と書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:36 UTC 版)
建築のまとめ方が、変わっておりひとつひとつバラバラになった建築の要素を こういう考え、これはこういう気分だというように、頑固なまでに自己を介在させることによって組み立てるやり方をとった[要出典]。晟一好みとでもいう、独自の美学を持ち、白井の建築には、ひとつの量塊としての重量感があり、存在感が溢れさせていた[要出典]。そうした美学と技柄を支えていたのが、普段から怠りなかった眼と手の修練で眼の修練としては、実際に家具、ランプ、燭台などを直接、自分で集めて、生活の中でそれらの持っているエッセンスを引き出すという本格派の手法をとる[要出典]。又、手の修練としては一流の域に達していた書道があった[要出典]。幼少時に京都市内の近所の寺で習字を習った経歴のある白井は、九州で黄檗の書を見たことをきっかけとして、建築の仕事のない時、書に勤しんだ[要出典]。「顧之書」は、漢詩や仏教用語の独特の教養を表現したものであり、生前から個展(東京)が開催されている。しかし、近年「白井研究所」所有の書には、完成作でないものまで業者(東京・月島)に渡されて書展を開催。「白井建築研究所」所有の書は別の業者(東京)が管理して松坂屋などで展覧してきた[要出典]。 秋田県内、特に湯沢市には白井が手がけた建築が多数残されている。羽後町の「羽後病院」が県内で最初の作品として知られている。「羽後病院」「雄勝中央病院」の図面は「白井晟一研究会」(本部・京都市・石沢加津子主宰)が2006年2月に探し湯沢市内の建設会社、丸臣高久建設で見つかった[要出典]。なお、京都市出身の白井が、秋田で多くの仕事の機会を得ることができた理由は、疎開中に秋田の知人宅に家財道具を預けた縁によるものである。
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