師団創設とルーマニアでの戦闘
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「第22SS義勇騎兵師団」の記事における「師団創設とルーマニアでの戦闘」の解説
1944年4月29日、新しいSS騎兵師団創設の骨格として第8SS騎兵師団フロリアン・ガイエルから第17義勇騎兵連隊が抽出され、ハンガリー国内で編成を開始した。師団の中核はこの連隊出身のベテラン指揮官で構成されたが、大部分は地元で徴募されたドイツ系ハンガリー人が占めていた。 8月前半、ドイツ陸軍総司令部は訓練中の師団から第52義勇騎兵連隊をルーマニア戦線へ抽出することを決めた。第17義勇騎兵連隊は残りの部隊を訓練するためにハンガリーに残留した。第52義勇騎兵連隊には独立して戦闘を行えるよう火砲などの装備が増強され、指揮官の名をとってヴィーデマン戦闘団としてルーマニアのアラドまで輸送され、デブレツェン周辺に展開する第3装甲軍団の麾下に入った。9月30日、アラド市周辺の防衛線に進出したが、同日には早くもヴィーデマン戦闘団長が戦死。10月2日、ロディオン・マリノフスキー元帥率いるソ連第2ウクライナ戦線正面軍の先鋒がアラド市に向けて威力偵察を開始。指揮を引き継いだアーマイザー戦闘団長は数度の攻撃を撃退することに成功した。しかし10月6日、ソ連第2ウクライナ戦線正面軍はいよいよデブレツェンに対し総攻撃を開始した。10月8日にはソ連軍は戦闘団を完全に包囲、さらに装甲部隊による大規模な突破作戦を仕掛けて2つに分断した。分断された一方のグループは翌日苦闘の末Harmas川の渡河に成功し友軍戦線に合流できた。もう一方の戦闘団残余もアーマイザーが陣頭指揮を取り、重装備を全て失いつつ敵前線後方200マイルを3週間かけて突破、10月30日アーマイザー自身を含む48人の生存者がブダペストの南のドナフェルドバールの町でドイツ軍部隊と合流出来た。 この行動により、1944年11月1日、彼は騎士十字章を授与された。
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