帝国末期の建築とバルヤン家とは? わかりやすく解説

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帝国末期の建築とバルヤン家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 05:44 UTC 版)

オスマン建築」の記事における「帝国末期の建築とバルヤン家」の解説

19世紀になると、ヨーロッパ諸国莫大な借款によってオスマン帝国猛烈な公共事業押し進める最終的に成功しなかったが、タンジマートによって国家機構西欧化ようとしたのである建築においてもヨーロッパ宮廷建築様式積極的に取り入れられるようになったこのため19世紀オスマン建築は、オスマン・アンピール様式呼ばれる絢爛豪華西欧風ものとなったが、平面構成旧来の伝統則したままであった。 この時代オスマン建築担い手アルメニア人のバルヤン家の人々で、この一族によって100棟以上の建築設計された。 ヌスレティエ・ジャーミーは、1826年マフムト2世イェニチェリ解体成功した記念として名付けられ宮廷礼拝堂で、クリコル・バルヤンが設計したのであるスルタントプカプ宮殿から海を渡って訪れるため、モスク背後控えの間がとられ、それまでモスクのように前庭を必要とせず、代わりに2つ泉亭をもつテラス設けられた。いささか過剰とも思われる装飾は、オスマン・アンピール様式と呼ぶにふさわしい。 1842年アブデュルメジト1世によって、トプカプ宮殿代わる新たな宮殿建設始まった敷地には宮廷庭園のあるドルマバフチェが選ばれ、ガラベット・バルヤン、ニコオス・バルヤンが建設携わった1855年完成したドルマバフチェ宮殿は、バロック建築の手法を取り入れたもので、中央大広間設けられ、海から向かって左側が公的空間であるセラムルク、右側私的空間であるハレム割り当てた構成となっている。建物へのアプローチボスポラス海峡から船で行われ外国特使最初に大広間正面波止場降り立った外部バロック意匠とは対照的に平面オスマン帝国伝統的な住宅のものであるまた、豪華な大理石張り浴室や「クリスタル階段」なども、オスマン特有の装飾趣味であると言えるボスポラス海峡沿いにはユルドゥズ宮殿ベイレルベイ宮殿建設されたが、いずれもドルマバフチェ宮殿ならったのである宮廷礼拝堂となるドルマバフチェ・ジャーミーは、ニコオス・バルヤンの手によって1854年完成したのであるヌスレティエ・ジャーミーとほぼ同じ構成ありながら外部装飾抑制され、より洗練された印象を受ける。彼はこのほかにも、オルタキョイ・ジャーミーを設計しており、同様に洗練したデザインを見ることができる。

※この「帝国末期の建築とバルヤン家」の解説は、「オスマン建築」の解説の一部です。
「帝国末期の建築とバルヤン家」を含む「オスマン建築」の記事については、「オスマン建築」の概要を参照ください。

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