崇徳院の流罪後
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乱後、崇徳院は讃岐に流され、自身の罪業を償うために五部大乗経をしたため、朝廷に八幡か長谷へと納経の許可を求める。しかし、後白河天皇はこれを拒否、恨みに思った崇徳は自らを大魔縁と称し、皇族を没落させることを誓う。この崇徳院の怨霊まつわる話は『平家物語』『太平記』にもたびたび引き合いに出され、『百錬抄』など、史書にも見えているため、当時実際に信じられていたことについては疑いはない。しかし、山田雄司の近時の研究によれば、院の讃岐での晩年は穏やかなものであったという。 また、この崇徳院の怨霊を鎮めるために、西行が讃岐へ渡り、歌を捧げる逸話が半井本などのいくつかの諸本、また延慶本『平家物語』などに見えている。これは『山家集』『西行物語』など、近い時代の歌集・説話集をはじめ、上田秋成の「白峯」(『雨月物語』)にまで伝えられる著名な話である。しかし、西行が讃岐へくだったのは仁安3年(1168年)のことで、崇徳院の怨霊が巷間で騒がれるのはもっと後になってからである。物語では怨霊の力で清盛の性格を変化させ、のちの平家の横暴を引き起こしたとするが、たとえば鹿ケ谷の陰謀が治承元年(1177年)のことであるから、時間の辻褄があっていないのである。この例などは史実を曲げてでも、あえて崇徳院の怨霊を西行が鎮魂したという構成を物語が求めた例として注目される。
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