崇徳院の流罪後とは? わかりやすく解説

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崇徳院の流罪後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:19 UTC 版)

保元物語」の記事における「崇徳院の流罪後」の解説

乱後崇徳院讃岐流され自身罪業償うために五部大乗経したため朝廷八幡長谷へと納経許可求める。しかし、後白河天皇はこれを拒否恨み思った崇徳は自らを大魔縁称し皇族没落させることを誓う。この崇徳院怨霊まつわる話は『平家物語』『太平記』にもたびたび引き合い出され、『百錬抄』など、史書にも見えているため、当時実際に信じられていたことについては疑いはない。しかし、山田雄司近時研究によれば、院の讃岐での晩年穏やかなものであったという。 また、この崇徳院怨霊鎮めるために、西行讃岐渡り、歌を捧げる逸話半井本などのいくつかの諸本、また延慶『平家物語』などに見えている。これは『山家集』『西行物語』など、近い時代歌集説話集をはじめ、上田秋成の「白峯」(『雨月物語』)にまで伝えられる著名な話である。しかし、西行讃岐くだったのは仁安3年1168年)のことで、崇徳院怨霊巷間騒がれるのはもっと後になってからである。物語では怨霊の力で清盛性格変化させ、のちの平家横暴引き起こしたとするが、たとえば鹿ケ谷の陰謀治承元年1177年)のことであるから時間辻褄があっていないのである。この例などは史実曲げてでも、あえて崇徳院怨霊西行鎮魂したという構成物語求めた例として注目される

※この「崇徳院の流罪後」の解説は、「保元物語」の解説の一部です。
「崇徳院の流罪後」を含む「保元物語」の記事については、「保元物語」の概要を参照ください。

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