属州と共和政の変質
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/07 03:16 UTC 版)
イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。 制度の上では、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。しかし一方で、派遣された総督はローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、収奪のみを仕事とした。形式的には被支配地域に対しては相当の自治を認め自由を重んじたが、実際は属州に対してはすさまじい収奪を行っており、属州になった地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こった。 搾取とは別に、従属した諸国と都市の有力者は、ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、有力者の庇護下に入った。この庇護する者をパトロヌス(patronus)、庇護される者をクリエンテス(clientes)という。もっともこのパトロヌス・クリエンテスの関係は、ローマの最初期からの伝統であり、帝政期まで長く続く。
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