小野本と熊野年代記とは? わかりやすく解説

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小野本と熊野年代記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 15:34 UTC 版)

熊野年代記」の記事における「小野本と熊野年代記」の解説

後述するように、熊野年代記は「霊光重宝写也」と認識され庵主梅本家伝来で他見許さない秘書であった明治初年神仏分離によって新宮庵主廃絶余儀なくされ、当主であった庵主周憲は、梅本五十穂主を名乗って還俗したこの際熊野年代記は他の文書と共に20点ほどの菊桐紋付納められ持ち出されたが、多く1889年明治22年)に水害遭って失われ、無事であった2点中に熊野年代記残されていた。熊野年代記その後今日三重県松阪市退転した梅本家で保管されていたが、和歌山県新宮中学校今日和歌山県新宮高校)の教員郷土史家であった小野芳彦の手によって1894年明治27年)に書写され、古写を収める第1巻と、第壱および第弐を収める第2巻2巻本(以下、「小野本」と略記)にまとめられた。梅本家本の3篇を総称する名として熊野年代記は、この時に小野により名付けられたものと考えられている。 梅本家本熊野年代記神代から1891年明治24年)までの記事収めるが、小野本は1827年文政10年)までで終わっている。第2巻序文において小野は、文政10年以後内容乏しいとして書写しないとした一方で明治以後の分は書写臨んだ際に梅本家の依頼により自らが書き継いだものだと小野記しており、成立事情異質である。小野は、 『熊野年代記』は、旧新宮本願たりし庵主住職の、代々相承けて書き継ぎ来れりと称するものにして、上代より文政十年至り、(その後住職幼稚等の為、闕略甚だしくして、参考資する足らず明治以後の分に至りては、明治廿七年の春、吾等の之を借覧せる際、当主梅本五十穂主氏の請により、補ひ継ぎて略記せるところなり。)貴重な熊野史料たり。 — 小野芳彦熊野年代記第二巻序文記していることから、小野熊野年代記熊野歴史史料把握しており、梅本家本全体忠実に転写することよりも、熊野史史料として筆写することに関心があったことが分かる加えて小野書写にあたって、濱井八助なる人物著した熊野年鑑』という書物をもとに、熊野年代記にない記事補い同様に神倉神社伝の『神倉社伝記』からも補記行なっている。のみならず梅本家本照合してみると記事取捨選択形跡見られ各条記述一貫した形式配列整理しなおそうとしているなどの点から、小野本は熊野研究上の史料として改訂しつつ作成された「新編熊野年代記」とでもいうべきものである

※この「小野本と熊野年代記」の解説は、「熊野年代記」の解説の一部です。
「小野本と熊野年代記」を含む「熊野年代記」の記事については、「熊野年代記」の概要を参照ください。

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