小野本と熊野年代記
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後述するように、熊野年代記は「霊光庵重宝写也」と認識され、庵主梅本家伝来で他見を許さない秘書であった。明治初年の神仏分離によって新宮庵主は廃絶を余儀なくされ、当主であった庵主周憲は、梅本五十穂主を名乗って還俗した。この際、熊野年代記は他の文書と共に20点ほどの菊桐紋付櫃に納められて持ち出されたが、櫃の多くは1889年(明治22年)に水害に遭って失われ、無事であった2点の櫃の中に熊野年代記は残されていた。熊野年代記はその後、今日の三重県松阪市に退転した梅本家で保管されていたが、和歌山県立新宮中学校(今日の和歌山県立新宮高校)の教員で郷土史家であった小野芳彦の手によって1894年(明治27年)に書写され、古写を収める第1巻と、第壱および第弐を収める第2巻の2巻本(以下、「小野本」と略記)にまとめられた。梅本家本の3篇を総称する名としての熊野年代記は、この時に小野により名付けられたものと考えられている。 梅本家本の熊野年代記は神代から1891年(明治24年)までの記事を収めるが、小野本は1827年(文政10年)までで終わっている。第2巻の序文において小野は、文政10年以後は内容に乏しいとして書写しないとした一方で、明治以後の分は書写に臨んだ際に梅本家の依頼により自らが書き継いだものだと小野は記しており、成立事情が異質である。小野は、 『熊野年代記』は、旧新宮の本願たりし庵主の住職の、代々相承けて書き継ぎ来れりと称するものにして、上代より文政十年に至り、(その後は住職幼稚等の為、闕略甚だしくして、参考に資するに足らず。明治以後の分に至りては、明治廿七年の春、吾等の之を借覧せる際、当主梅本五十穂主氏の請により、補ひ継ぎて略記せるところなり。)貴重なる熊野の史料たり。 — 小野芳彦『熊野年代記』第二巻序文 と記していることから、小野が熊野年代記を熊野の歴史史料と把握しており、梅本家本の全体を忠実に転写することよりも、熊野史の史料として筆写することに関心があったことが分かる。加えて、小野は書写にあたって、濱井八助なる人物が著した『熊野年鑑』という書物をもとに、熊野年代記にない記事を補い、同様に神倉神社伝の『神倉社伝記』からも補記を行なっている。のみならず、梅本家本と照合してみると記事に取捨選択の形跡が見られ、各条の記述を一貫した形式に配列・整理しなおそうとしているなどの点から、小野本は熊野研究上の史料として改訂しつつ作成された「新編熊野年代記」とでもいうべきものである。
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