富士身延鉄道の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:33 UTC 版)
1918年(大正7年)、鉄道敷設工事を再開し、芝川と十島駅間が同年8月に開通。同年10月には、内船南部駅(現:内船駅)まで開通。翌1919年(大正8年)甲斐大島駅まで開通。しかし同年8月の暴風雨で被害にあい、復旧工事に営業収入の三分の一を費やした。 1923年(大正12年)4月、小野金六の死去を受けて富士身延鉄道の社長に就任した。また弟の堀内宗平を富士身延鉄道の支配人として招聘した。 1926年(大正15年)の株主総会で鉄道の電化を決定、合わせて増資を実施した。1927年(昭和2年)6月、加島(現:富士駅)から身延駅までの電化が完了。また、同年12月に身延駅から市川大門駅まで開通。 当初、市川大門から甲府までの間は鉄道省の官営事業として行われる計画であったが、堀内の請願により富士身延鉄道での敷設で認可が降りた。1928年(昭和3年)3月、市川大門駅から甲府駅まで全線開通を果たした。
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