富士身延鉄道社長辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:33 UTC 版)
堀内は1931年(昭和6年)に富士身延鉄道社長を辞任した。この原因について『富士を拓く』では、富士身延鉄道の国有化に反対の立場をとったため、根津嘉一郎から辞任を要求されたと書かれている。 しかし異説もある。関東大震災により経営不振に陥った國民新聞は、1926年(大正15年)5月、根津嘉一郎の出資を受けて、徳富蘇峰との共同経営となった。このとき、徳富蘇峰に根津嘉一郎を紹介した一人が堀内良平であった。また堀内良平は國民新聞の新経営陣の一人として取締役に就任した。しかし根津と徳富の間に編集方針をめぐって確執が生じ、1929年(昭和4年)に徳富は社長の座を追われることになる。堀内は懇意にしていた徳富蘇峰を支持したため、根津から富士身延鉄道の社長を追われたとするものである。
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