富士身延鉄道の設立
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1909年(明治42年)、報知新聞を辞した。堀内は甲府から静岡県富士川までの鉄道事業を計画し、これまで築いてきた山梨出身の財界人との人脈を使って建設運動を始めた。根津嘉一郎はこの話に前向きであったが、小野金六は当初出資に対して否定的であった。時間をかけて、小野金六を説得した。 1911年(明治44年)3月、静岡県大宮町(現、富士宮市)から甲府市までの鉄道免許を鉄道院に提出。しかし、大宮町から加島村(現、富士市)の間には、富士鉄道が軽便鉄道を免許をもち、鉄道馬車を走らせていた。このため同区間の免許が下りなかった。このため、富士鉄道の買収交渉を進め、1912年(明治45年)になり富士鉄道は買収に応じた。同年4月、正式に富士身延鉄道が創立し、小野金六が社長、堀内は専務取締役に就任した。 1913年(大正2年)7月に加島(現:富士駅)と大宮(現:富士宮駅)の間が開通した。1915年(大正4年)には芝川駅まで開通。しかし、資金難で工事中断に追い込まれた。
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