寅年の騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:00 UTC 版)
笠間に戻った後の天保13年(1842年)、笠間藩では藩主相続をきっかけに騒動が起きた。 一昨年の天保11年(1840年)に藩主牧野貞一が、息子が幼少だったため養子となって後を継いだ弟の牧野貞勝が天保12年(1841年)に相次いで夭折。貞一の息子牧野貞久がわずか7歳で相続することとなった。 その頃の藩政は家老の川崎頼母が政権の座にあった。頼母は笠間藩の藩政改革で16年に渡り手腕を発揮し、天保の大飢饉では被害を最小限で乗り切ることに成功した。こうした実績から、次第に専制的となり権力を一手に占めるようになっていた。 この頼母の専制政治を改革しようと、執行部に反対する桜老は同志ら30余名と謀り、3代藩主牧野貞喜の子で旗本へ養子に出ていた布施重正を貞久の後見人にし、川崎派を排除して藩政改革をするよう中立派だった家老の牧野光保に訴えた。 1年以上にわたる騒動の結果、穏便に決着させるため、光保が全責任を一身に背負い自刃。川崎頼母は蟄居、桜老も藩政批判や騒動を起こした罰で弘化元年(1844年)「慎」10日間の罰を受けた。
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