寄合番役人
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元禄8年5月23日に野辺英当・尾関甚左衛門・井口宗貞・比留正房・沢実重の5名が寄合番に就任。新設された大久保と四谷の犬小屋の支配となった(「常憲院殿御実紀」『徳川実紀』元禄八年五月二十三日条)。野辺以外の4人は元禄7年(1694年)まで近江国に居住していた鷹匠で、江戸に引越しを命じられたばかりだった(『京都御役所向大概覚書』上巻)。尾関甚左衛門の父・正平(まさひら)は手鷹師を務めていたが寄合番となり、元禄7年に死去。甚左衛門は見習を経て寄合番となり、同年7月11日に父の後を継ぐ。知行100石を賜り、後に四谷の御犬預となる。「柳営日次記」によれば、5名のうち比留が大久保の、残る4人が四谷犬小屋の支配であった。 そのほかに、父・盛近とともに鷹匠を務めた山本尚盛が元禄6年9月16日に寄合番に異動。尚盛の嫡男・尚柾は元禄9年6月25日に寄合番に就任。宝永元年(1704年)正月25日に尚盛が没した後、同年4月3日に家督を継ぐ。手鷹匠出身の佐原元正は、山本父子とともに寄合番支配を担当した。 鳥見からは天野政将・林勘右衛門・若林義豊・幸田正信・岡田甚右衛門・海野良幸が配属。天野は寄合番支配の山本尚盛・佐原元正の補佐、他の5名は山本・佐原の指揮下に属して生類方御用を担当することになった(「改正甘露叢(かんろそう)」一)。 元禄9年6月18日、四谷犬小屋支配の井口は病気で退任し、代わりに鳥見の飯田長左衛門が就任(「柳営日次記」)。同年7月10日には小姓組の松平次郎左衛門が大久保・四谷犬小屋の支配を命じられた(「甘露叢」)。 元禄8年10月29日に中野の犬小屋が落成した後、大久保犬小屋担当の比留正房が管理を命じられ、同年11月9日には沢奉実と2名で管理を担当することとなった(「常憲院殿御実紀」)。下役人は、風呂屋方・賄方・小普請手代組頭・細工所同心・寄合番下役・小石川御殿番同心組頭・掃除之者組頭など11人が着任した(「柳営日次記」)。翌年正月29日にも、納戸同心・腰物同心・賄方・細工方・寄合組など7人が増員された(「柳営日次記」)。以降も、犬小屋組織拡充に伴い人員が追加されていった(「改正甘露叢」「常憲院殿御実紀」)。
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