生類方御用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 03:32 UTC 版)
生類方御用の職務は、「鶴場の管理」と「烏・鳶の巣の取り払い」だった。 綱吉は将軍に就任してしばらく後から鶴の放し飼いを実施。貞享3年(1686年)閏3月と同4年(1687年)、小石川(現・東京都文京区)の田んぼに幕府が飼育していた鶴を放して、野生の鶴をここにおびき寄せようとした。こうして鶴が居ついた場所は早稲田(同新宿区)にも存在したようで、こうした場所を鶴場(つるば)・放鶴場(ほうかくば)と呼び、役人に管理させることになった。こうした鶴の放し飼いは、鶴の保護と放生、そして鶴の増殖を人為的な管理のもとにおこうとする目的で行われたと考えられている。寄合番は、江戸周辺の村々から放し飼いの鶴の飛来情況の報告を受け、鶴が飛んできた村に番人を付けて見守らせ、鶴が居つくよう手助けをするように指示した。そして、村々では細々とした決まりの遵守を請書で誓約し、小日向台町の鷹部屋御用屋敷に提出した(『越谷市史』史料一)。 巣の取り払いは、貞享5年(1688年)2月23日に森林や街道の並木、屋敷周辺の山に烏・鳶が巣を作らないように見廻り、巣があった場合は取り払うよう命じたのが始まりで、巣掛けに気付くのが遅れてすでに鳥が産卵していた場合は巣を取り払うのは問題であるとして、年貢地・武士屋敷・寺社に通達するように命じた(「武家厳制録(ぶけげんせいろく)」三九九号)。当初この法令は幕領の村々を対象にしていたが、「江戸近辺五里程之内」の幕領・大名領・旗本領・寺社領の村々へと範囲が広げられ、元禄6年以降は毎年江戸の町方にも出された。当初は、巣払いは廃職されるまで鳥見が所管していた。
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