宣教師の伝道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 21:04 UTC 版)
「トランケバル伝道団(英語版)」も参照 植民地の全盛期、 18世紀の終わりには、トランケバルには200人以上のヨーロッパ人の駐在員がおり、植民地はインドの他の場所やインドネシア、中国、タイ、ペルシアなどとのデンマーク人の貿易の本部として機能していた。 1705年、ドイツの宣教師Bartholomäus ZiegenbalgとHeinrich Plütschauは、デンマーク王が辺縁の領土に対しても宗教に配慮していることを表すために、トランケバルに派遣された。彼らはルーテル教会から送られた最初の宣教師だった。特筆すべきは彼らの建てた印刷所で、最初のタミル語聖書や辞書など、その後の100年間にタミル語の本を300冊以上印刷した 。 しかし、19世紀になるとデンマークの貿易は衰退し始め、世紀初頭のイギリスとの戦争はデンマーク海軍に深刻な打撃を与えた。1845年、ガラテア遠征隊(英語版)がトランケバルに来航した。デンマークがインドのデンマーク植民地を英国に売却したため、艦長スティーン・ビル(Steen Bille)がダンスボー砦からデンマーク国旗を降ろす公式式典を行った。インドでのデンマーク植民事業はこうして終わった。 今日でも古いデンマークの街区がタランガンバディには残っている。17世紀に建てられた保存状態の良い砦ダンスボー(デンマーク城)、市門、Kongensgade(国王通り)、知事の住居など。
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