実験の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 05:07 UTC 版)
「高橋貞子 (超能力被験者)」の記事における「実験の終焉」の解説
これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果と前述の彼の著書『透視と念写』(1913年)として出版されたが、逆にこれは「迷信を増長させる」として、多くの学者たちの反発と批判を招いた。福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった。かつて福良の超能力実験に懐疑的だった物理学者の山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった。 孤立無援となった福来に代り、宮二は山川に実験の協力を仰いだが、山川は多忙などを理由として取り合わなかった。宮二はこれを不誠意な対応と受け止めて憤慨し、今後一切の学者の協力に応じないことを決断した。やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、1915年(大正4年)に、郷里の岡山へ転居した。こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。 宮二によれば、岡山での貞子は心霊治療を行っており、周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば渡航して治療していたとされる。こうした治療行為は、1925年(大正14年)まで続けられていた。宮二が1933年(昭和8年)に出版した『千里眼問題の真相』によれば、貞子は同1933年頃まで岡山にいたことが記録されているが、その後の記録は未確認であり、晩年の様子や没年も定かではない。
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