実業界から教職者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:38 UTC 版)
「ウィリアム・インブリー」の記事における「実業界から教職者へ」の解説
プリンストン大学を卒業した後はウォール街の証券会社に就職し、次いでペンシルベニア鉄道会社に転職したが、長続きせずにどちらも半年で辞めた。父と同様に教職者を志すことを決意し、1年間入学試験の準備を行った後、1867年秋にプリンストン神学校に入学した。神学校の同級生にはいとこのエドワード・ローゼイ・ミラー、のちに在日ミッションの同僚となるオリバー・マクリーン・グリーンらがいた。インブリーは1870年クラスを首席で卒業した。 1871年4月18日にジャージーシティ長老教会で按手礼(あんしゅれい)を受けた後しばらくはチャールズの教会で奉仕活動を続け、その間に1873年9月9日にチャールズの司式により同教会信徒で実業家の娘のエリザベス・ドリマス・ジュエル(1845–1931)との結婚式を挙げた。同年10月8日にジャージーシティ長老会からニュージャージー州レイクビュー長老教会の牧師に任命された。いとこのミラーはプリンストン神学校の専門研究科を修了した後、1872年4月1日にジャージーシティ長老会から日本派遣の宣教師に任命され、その2か月後に単身で日本を目指して出発した。 ミラーが日本に派遣されて3年後、長老教会海外伝道局からチャールズを経由してインブリーのもとに宣教師として日本に赴任するよう要請が届き、これを受けて彼は1875年1月にレイクビュー長老教会牧師の任を解かれた。同年6月21日に海外伝道局は宣教師派遣選考委員会を開き、インブリーの日本派遣を正式に決定した。アメリカ合衆国長老教会では宣教師の派遣は本人の所属する長老会が任命していたが、インブリーに限っては例外的に海外伝道局が直接任命したいわばお墨付きであった(インブリーの父親は海外伝道局の理事も務めていた)。 1875年8月末に、インブリーとエリザベス夫人はジャージーシティを出発し、大陸横断鉄道に乗って西へと移動し、サンフランシスコからパシフィック・メール汽船会社(英語版)所有の汽船、「チャイナ号」に乗船し日本へと向かった。
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