宗教改革、大学、三十年戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:39 UTC 版)
「マールブルク」の記事における「宗教改革、大学、三十年戦争」の解説
フィリップ1世は、1504年にマールブルクで生まれた。父親のヴィルヘルム2世方伯は1509年に亡くなり、フィリップは13歳の若さで君主の座を引き継いだ。プロテスタントの教師に学んだ彼は、ドイツにおける宗教改革の先駆者となった。方伯は1527年に、レグニツァ(1526年)に次いで2番目となるプロテスタントの大学を創設した。これ以後、この大学はこの街の最も重要な経済的ファクターとなり、今日まで存続している。また、ギムナジウム・フィリピヌムや、ドイツ最古の学生寮であるヘッシシェ・シュティペンディアテナンシュタルトも彼の建造による。 1529年、フィリップ寛大侯の招きによりマールブルク城においてマールブルクの宗教会談がなされた。これは、ヴォルムス勅令後の共同活動を確立するための会談であった。しかしこの会談ではルターとツヴィングリとの間で、特に聖餐に関して、その解釈の相違が明らかとなった。 1567年3月31日のフィリップ1世の死後、ヘッセン方伯領はヘッセン方伯家の古風な家法に則って4人の息子の間で分割された。ヴィルヘルム4世がヘッセン=カッセルと呼ばれる北部を、ルートヴィヒ4世がヘッセン=マールブルクを、フィリップ2世がヘッセン=ラインフェルスを、ゲオルク1世がヘッセン=ダルムシュタットと呼ばれる南部を相続した。フィリップ2世とルートヴィヒ4世は、それぞれ1538年と1604年にいずれも子供のないまま死亡し、その所領はヘッセン=カッセル方伯領あるいはヘッセン=ダルムシュタット方伯領に編入された。こうしてマールブルクはヘッセン=カッセル方伯領に属すこととなった。 ヘッセンは 4分家から、1604年には事実上 2分家となった。ヘッセン=マールブルク領の相続を巡る争いや、ルター派のダルムシュタット家に対して改革派のカッセル家という宗教上の対立が、両者間の憎悪へつながり、何十年もの間対立を続けた。
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