宋風文化の移入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:42 UTC 版)
上述した禅や宋学のほかにも宋風文化の移入は多岐にわたった。幕府もまた、京都の朝廷との対抗上、新しく確立した東国政権を宋風文化によって壮麗かつ威厳あるものにしようと意図した。陳和卿などの宋人が多数渡来・移住し、博多には大唐街(唐人町)がつくられた。肥前今津、肥前神埼荘、name=amino134/>。日本列島の側からも重源・栄西・俊芿・道元などが渡宋したが、栄西は将軍源実朝に宋より伝来した茶に関する『喫茶養生記』を献上しており、道元とともに渡宋したといわれる加藤景正も大陸の製陶技術の影響を強く受けた。 宋との往来や活発な日宋貿易は、宋銭の大量輸入をもたらし、これにより日本でも本格的な貨幣経済が進展して商業取引がさかんになった。そのことは経済や政治のみならず文化の諸相にも影響をあたえた。律令国家期の大陸文化の移入は外的には華やかさ、強さがあっても、そのおよぶ範囲は限定的であったのに対し、民衆の地位向上の進展が著しい鎌倉時代以降にあっては、外来文化の影響は必ずしも表面的に際だってはいないにもかかわらず、後世の日本人の生活様式に広汎な影響をおよぼしたといえる。
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