学芸の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 05:57 UTC 版)
「アイスランドのキリスト教化」の記事における「学芸の隆盛」の解説
改宗が政治的な理由でなされたこともあり、キリスト教が国教となった後も旧来の宗教の精神が維持され、アイスランド独自の文芸が発展することとなった。教会ではラテン語だけではなく地元のアイスランド語も使われていた。異教に関連づけられた神話伝承は他の地域のように消滅させられることなく、ノルウェーから比較的新しい時期に伝えられたスカルド詩と共に、ラテン文字で記録されていった。また先のイスレイブが1057年にスカルホルトに司教座を開いた後、彼に師事したヨーン(英語版)が1106年にホラール(英語版)に2つ目の司教座を開いた。この2つの司教座には学校も設けられ、また島内各地にも学校や私塾ができ、ゴジの子供達がこれらで学芸を学んだことからキリスト教文化が島民の間に浸透していった。なおシーダのハルの子孫にあたる神父のセームンド(英語版)もフランスからの帰国後にオッディに塾を開いたが、スノッリ・ストゥルルソンはここで学んでいる。 修道院も、5人以下の修道士を抱えた小規模なものがいくつかつくられたが、このうち北部のシングエイラル(アイスランド語版)の修道院は、修道士がオーラヴ・トリグヴァソン王や聖オーラヴのサガを書いたり、修道院長のカール・ヨーンスソン(アイスランド語版)がノルウェー訪問時に『スヴェレのサガ』(en)の冒頭部を書いたりしたなど、学問に熱心な修道院であった。しかしこの頃の修道院の役割は文化面以外では限定的なものだった。
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