学名と「破門草事件」
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「トガクシソウ」の記事における「学名と「破門草事件」」の解説
伊藤篤太郎(1865-1941)は、本草学者で、東京大学教授の伊藤圭介(1803-1901)の孫であり、当時、東京大学植物学教室に出入りを許された在野の植物学者であった。伊藤篤太郎は、自分の叔父の伊藤謙(1851-1879)が1875年(明治8年)に戸隠山で採集し、小石川植物園に植栽した本種の標本を、1883年(明治16年)にロシアの植物学者マキシモヴィッチに送り、マキシモヴィッチは1886年にロシアの学術誌「サンクト・ペテルブルク帝国科学院生物学会雑誌」にPodophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. として、メギ科ミヤオソウ属の一種として発表した。 東京大学植物学教室の矢田部良吉(1851-1899)教授も1884年(明治17年)に戸隠山で本種を採集し、小石川植物園に植栽した。2年後の1886年(明治19年)に開花し、1887年(明治20年)にマキシモヴィッチに標本を送り、鑑定を仰いだところ、翌1888年(明治21年)3月、マキシモヴィッチは「本種はメギ科の新属であると考えられ、Yatabea japonica Maxim. の学名をつけたいが、正式な発表前に花の標本を送ってほしい」と回答した。伊藤篤太郎はこの矢田部教授の動きを聞き、既に自分が発表したPodophyllum japonicum がミヤオソウ属の一種ではなく新属であることを知り、また、新属名が Yatabea と矢田部教授に献名される予定であることを知った。伊藤篤太郎は、叔父の伊藤謙が採集し、自分が最初に学名をつけた植物の学名が矢田部教授に献名されることにあせり、1888年(明治21年)10月に、イギリスの植物学雑誌 Journal of Botany, British and Foreign 誌に、新属 Ranzania T.Itô を提唱し、Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. (1887) をこの属に移し、新組み合わせ名 Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888) として発表した。マキシモヴィッチによる Yatabea japonica Maxim.は、伊藤による発表の後であるため、この学名は無効となり公にならなかった。矢田部教授はこのことを知って怒り、伊藤篤太郎を植物学教室の出入り禁止処分にした。トガクシソウは俗に「破門草」という隠れた名前がある。 ともあれこの件により、伊藤篤太郎とトガクシソウは「日本で初めて学名をつけた人物」「日本人により学名を付けられた最初の植物」とされている。
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