子女一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 06:08 UTC 版)
「ダルマス1世・ド・スミュール」の記事における「子女一覧」の解説
1013年頃、アランブルジュ・ド・ブルゴーニュ(988/99年 - 1016/25年?)と結婚した。アランブルジュはヴェルジー家出身のダルマス父の再婚相手であるブルゴーニュ公アンリ1世未亡人マオー(968年 - 1015年頃)と前夫の娘である。アランブルジュとの間に以下の子供がいる。 エリー(エリエットとも)(1015年頃 - 1055年以降の4月22日) - エルヴィー、またはエルムガルドと誤記されることがある。スミュールにて出生。1032年にブルゴーニュ公ロベール1世老公(1011年以前 - 1076年)と結婚。実父を夫のロベール1世に殺害された後に離婚した。離婚後は弟ジョフロワ2世がいるマルシニー修道院に隠遁し余生を過ごしたと伝えられている。 ユーグ(1024年 - 1109年) - 聖ユーグとして知られる。クリュニー修道院長。 ジョフロワ2世(1018年/1025年以前 - 1090年) - 5代目のスミュール領主。アエリー(またはアリックス、1030年以前 - 没年不詳)という女性と結婚した。領主を辞し、息子1人と娘3人を連れて一緒にクリュニーに身を移した後、マルシニー修道院に隠棲、その後マルシニー修道院長となる。 アンドレ(1025年以降 - 1070年頃) - 1063年以前に自分が支配していたラ・ロシュ=ミレにあるモルヴァンの土地を兄ジョフロワ2世を通し、マルシニー修道院に寄付したとされる。 ジョスラン(JosserandまたはJoceran)(985年 - 1045/8年) - 父ダルマスと義兄ロベール1世の紛争に介入している間、父と同時にブルゴーニュ公国の2人の兵士によって殺害された。ロベール1世は事件後に聖ユーグがいるクリュニー修道院に来て懺悔し罪を告白している。 ダルマス(1020年頃 - 1054/70年) - 若卿と称される。モンタギュー、ドロワとトレモンの領主。彼はよく長兄ジョフロワの特許状に引用されている。名前不明の妻との間に2人の息子がいた :長男ルノー 父の後モンタギュー卿を継承。次男ユーグ(1136年没) オセール司教、サンジェルマン・ド・オセール修道院長。ユーグ・ド・モンタギューとも呼ばれた。 アデライード(アエリー) - ブルボネーのダルマス・ド・シャテル=モンターニュ男爵夫人としても知られる。ブリエノンの広大な領地とヴィトリー=レ=パライユの統治権を結婚の持参金とした。1066年にマルシニー修道院に入り、息子ピエール・ド・シャテルの同意を得て、ヴィトリーとブリエンノンからマルシニーの修道院に多額の寄付をしている。 マティルド(マオー)(1030年 -?) - ラ・モット=サン=ジャン卿ギシャール・ド・ブルボン=ランシーと結婚し夫と死別し寡婦となった後、1082年にマルシニー修道院に入る。 セシル エーヴルまたはウーエレ エルマンガルド - 1061年にマルシニー修道院で初の女子修道院長となった。 ルノー(1016年頃 - 1040以前) - バール=シュル=オーブ女伯アデール・ド・バール(1010年頃 - 1053年)と結婚した。
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