妻・貞子との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:08 UTC 版)
中川一郎と貞子が結婚したのは、1951年(昭和26年)7月9日。札幌市中央区南14条西4丁目にある弥彦神社で、神前結婚式が行われた。2人の結婚に当初から反対していた一郎の父・文蔵は姿を見せなかった。 中川の夫婦仲の悪さは、政界でかなりの程度知られていた。中川にとっては兄貴分的存在で政治の指南役でもあった金丸信は、 「一度忠告してやったことがあるんだ。女房が怖いとか、俺の言うことに従わないって、あまりにもこぼすので『そんな女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。心配するな』と教えたんだ。私の忠告どおり女房を殴りつけていればこんなことにはならなかったかもしれないな」 「総裁選後の中川君と、それ以前の中川君とは、もう全然違う人間のように変わった。以前の彼と違って、以後の彼は、もうクヨクヨ、クヨクヨして話にならんのだ。目やになんか出しちゃったりしてね。顔じゅうに吹き出物がブツブツと出ているし。それで“キミ、なんか疲れているのと違うんか。目やにや吹き出物がどうしてでるんだ”って健康に注意したことがある。あとで考えてみれば、もうその頃から睡眠薬なんてものを奥さんが惜しげもなく大量に飲ましていたらしい。ウイスキーとの併用の弊害を無知で飲ましたとすれば許せるけれど、無知でなくて、承知で飲ましていたとすれば、これはもう許せないことだ」 と述べている。 貞子は中川一族の血を憎むだけでなく、一郎の生活スタイルからスマートさのかけらもない“百姓あがり”のずんぐり、むっくりした武骨な体軀そのものまでを嫌った。 一方で皮肉なことに、中川一郎は「開拓農家出身であることを誇りにし、政治家になってからはその土着性、庶民性にあふれたムードを売りものにさえした」。中川夫妻は、「この一点だけでも“似合いの夫婦”の正反対、趣味から好き嫌い、人間の付き合いかた、生きざまとすべてが相反する、世にも稀なカップルであった」。 長男の昭一には兎唇の障害があったため、幼児期と東大を卒業してからと2度にわたり、兎唇であることがわからぬよう手術を受けた。したがってその跡はほとんど目立たなかったが、問題は1回目の手術の際、貞子のとった態度である。手術代を払えぬほど貧乏していたわけではないのに、「これはあなたがた中川兄弟の血に問題があるのですから、あなたがたでお支払いください」と冷たく言い放って、手術代を本家の中川正男に支払わせた。“マドンナ賢妻”に頭のあがらない一郎は、妻の冷酷な仕打ちに人知れず泣き、兄弟姉妹には「申し訳ない。我慢してくれ」と頭を下げ詫びて回った。
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