妻木氏の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 14:49 UTC 版)
当時岩村城主であった田丸直昌は岩村近辺の庄屋を集め、自分に味方すれば知行を増やすと誘い300石、500石の墨付を与えた上で人質を取った。しかし岩村城だけで兵士を出すのは不便と思い、砦を土岐、高山の両方に築き、これにより東軍を追い払おうとした。砦の近くには妻木城がある。妻木頼忠は兵を遣わして田丸領に放火して状況を見るに両方の砦の兵は出なかったため兵を率いて丹羽氏信からの援兵100余人を合わせて、土岐・高山の両方の砦に対して塁を築き、家康に対し形勢を報じる書を送った。8月12日に田丸直昌の家臣の寺本吉左衛門、林與次衛門等の兵300人をもって高山の砦より池田・多治見へ出て、進んで妻木領へ放火しようとした。妻木頼忠はこの諜報を得て自ら唐沢へ陣して父の妻木貞徳の兵と共にこれを襲って勝利した。また8月20日には土岐郡の柿野の戦いにおいても勝利した。9月1日には妻木親子は唐沢から高山の砦に迫り火を民家に放って奮闘し戦った。田丸方の高山の砦は9月3日に自焼。煙に紛れて土岐砦にも入り制圧した。妻木勢は寺河戸村に砦してこれに対した。
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