失政と追放とは? わかりやすく解説

失政と追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:16 UTC 版)

ムルシリ3世」の記事における「失政と追放」の解説

ラムセス2世治世8年目紀元前1271年?)と10年目紀元前1269年?)にシリア遠征しヒッタイト支配下にある複数都市奪った。しかしヒッタイトカルケミシュ総督シャフルウヌワがそれを奪還することに成功した一方ミタンニ王ワサシャッタはムルシリに賂してアッシリアと戦うよう要請し、ムルシリも応諾したが、言葉ばかりで軍隊を送らなかった。同じことは既にワサシャッタの父王シャットゥアラ1世に対して行っていた。こうしてミタンニアッシリア征服されることになる。そのアッシリア王アダド・ニラリ1世を、ムルシリは「大王」と認めたものの、意趣返しのため大国君主間の通例である「我が兄弟」と呼びかけず、両国の関係がさらに悪化した。 やがて即位から7年目紀元前1264年か)、ハットゥシリからその知行地であるハクミッサとネリッカを取り上げようしたため逆にハットゥシリによってサムハに幽閉され次いでヌハッシェに追放された。しかしハットゥシリはムルシリの王位奪っても、殺すことは拒否した。かつての相談役シパツィティはムルシリのため挙兵しようとした失敗し内戦回避された。かつての臣下たちであるマシュトゥリやミッタナムワはハットゥシリの側に付いた。ムルシリの失政もあり、属国の王たちにもムルシリを支持しようとする者はいなかった。 ヌハッシェにいたムルシリは姉妹嫁ぎ先であるバビロン巻き込んで陰謀計画したが、失敗して今度アラシアキプロス)に流された。ムルシリはアラシアからシリアエジプト領内逃れ、ハットゥシリはラムセス2世にムルシリの引渡し求めたが、ラムセス関知せずとして拒絶した紀元前1259年エジプトヒッタイトの間に和平条約結ばれ互い犯罪人引渡し定められたが、ムルシリは例外的にエジプト留まることが許された。ムルシリは王位追われ20年後もエジプト生存していたことが確認されている。ハットゥシリはムルシリの弟クルンタをタルフンタッシャ副王封じてムルシリに近い者たちを懐柔し、その支配揺るぐことはなかったものの、この簒奪劇はのちのヒッタイト帝国命運に悪い影響を及ぼすことになる。

※この「失政と追放」の解説は、「ムルシリ3世」の解説の一部です。
「失政と追放」を含む「ムルシリ3世」の記事については、「ムルシリ3世」の概要を参照ください。

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