失敗したブラジルのカピタニアと難破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 19:22 UTC 版)
「ジョアン・デ・バロス」の記事における「失敗したブラジルのカピタニアと難破」の解説
当時ジョアン3世はブラジルへの入植を促進するために植民地をカピタニア(特別自治区)に分け、バロスにはマラニョンのカピタニアを与えた。バロスは2人の協力者とともに10隻からなる艦隊を準備し、各船に900人をのせ、1539年に出帆した。 水先人の知識の不足によって艦隊の船はすべてが難破し、その結果バロスは重大な損失を被ることになった。善意のしるしとして、バロスは探検中に死亡した人々の負債を支払った。 この時期にも余暇を見つけては研究を続け、ブラジルでの災難の少し後にインドでのポルトガル人の歴史である『アジア史』(Décadas da Ásia) を書くことを提案し、王は承認した。バロスはただちに著述を開始した。そのほかに1539年以降、第1巻が公刊される前に2種類のポルトガル語文法書および数冊の対話篇を出版した。バロスの文法書はフェルナン・デ・オリヴェイラのもの(1536年)の次に古いポルトガル語文法書だった。
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