天空に散る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:47 UTC 版)
大戦も中間に差し掛かり、日本の戦局に行き詰まりが見え始めると、中国の空から日本軍機は少しずつ消えていった。すると、中国軍のパイロット達の間にはある程度の心の余裕が見え始めていた。周もその例外ではなかったが、彼にはその油断が命取りとなってしまった。その年の12月14日夕方、周志開はP-40Nを操縦し、彼同様中国空軍のエースパイロットであった高又新(総撃墜数8)と共に湖北省周辺の敵情を偵察していた。しかし敵の姿は見えず、また日没も近い為、周はバンクを行い、高に先の帰搭を命じた。その直後、日本陸軍航空隊の85戦隊第一中隊(中隊長:細藤才中尉)所属の鐘馗5機に遭遇。周は応戦するも空しく、後方から細藤中尉機自身の放った12.7ミリ機銃3発が周機の燃料タンクを貫通、周機は火を噴くことなくそのまま墜落し、長陽県龍潭坪付近の山中に激突、周もほぼ即死した。 付近の住民が発見したとき、雪に半分めり込んでいた状態の機体はエンジンおよび主翼は大破、操縦席付近の損傷は少なかったものの、周の遺体は顎から上が吹き飛んでいた惨状だったという。遺体は彼らによって回収された後、3日かけて作られた棺に入れられたのち、更に3日かけて人力で山のふもとにある最寄の船着場・三斗坪まで降ろされた。そこで厳粛な葬儀が行われたのち、船で軍に引き渡された。なお、戦死時の階級は少校(少佐に相当)だったが、翌年の44年8月15日付で中校(中佐に相当)へと特進した。 周の戦死後、彼の母の周倩誼は、その見舞金を空軍の教育事業に寄付、さらに13歳の末子を空軍学校に入学させるなど、中国空軍の発展に支援を惜しまなかった事から“空軍の母”(「中国空軍の母」宋美齢夫人と区別するため)と呼ばれた。
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