天方新城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 08:15 UTC 版)
天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。その通興がより堅固な城塞を求めて築いたのが、現在の静岡県周智郡森町向天方に残る天方城である。 それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が今川義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年(1568年)、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年(1569年)6月19日、家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、榊原康政、天野康景、大久保忠隣を先陣にして、まず飯田城へ殺到してたちまちの内に攻め落してしまった。飯田城主山内対馬守通泰とその一党が悉くが討死したが、通泰の庶子伊織が、家臣の梅村彦兵衛に伴われて三河(今の愛知県)へ落ちのびた。それから天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。通興もよく防戦したがついに力尽きて降伏。 翌、元亀元年(1570年)10月位には武田による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となり、天方城にもその手が伸びた。「天方山城守、兵備を整え不穏なり」と命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったとして再び大須賀康高、榊原康政ら徳川の軍勢に攻められた。通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って、開城し、再び徳川家康に降った。 1.天方新城、2.天方本城
※この「天方新城」の解説は、「天方城」の解説の一部です。
「天方新城」を含む「天方城」の記事については、「天方城」の概要を参照ください。
- 天方新城のページへのリンク