大量生産の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 10:43 UTC 版)
ここまでの伝播は主食用の用途を主目的としており、ハイランド・バナナやプランテン・バナナの伝播の歴史であって、果物バナナはそれに付随して伝播していった。これが大きく変わるのは、19世紀の後半にアメリカ合衆国の資本が果物バナナの大規模なプランテーション栽培に乗り出してからである。マイナー・キースの創立したユナイテッド・フルーツ社が1874年にコスタリカに農園を作ったのを皮切りに、大企業が中南米へと進出し、広大な未耕地を開発して大農園を作り上げた。鉄道や船などの輸送手段の改善によってバナナをアメリカの消費者へと送り届けることが可能になり、バナナはホンジュラスやコスタリカ、グアテマラなどの中米の小国において主要輸出品目となるまでになった。20世紀に入るとさらに生産は拡大し、フィリピンなどにおいても商業生産が拡大していった。この生産の急拡大と輸送手段の改善によってバナナは安価な果物として先進諸国において急速に広がっていった。一方で、バナナ会社は寡占化が進み、最大手だったユナイテッド・フルーツ社はバナナ・プランテーション以外にめだった産業のない中南米の小国群を意のままに支配するようになり、こうした国家を指すバナナ共和国という政治用語が生まれるまでになった。 一方で、アフリカのバナナ主食地帯には17世紀に南アメリカからキャッサバが伝来し、バナナよりもさらに手間がかからず多収量であるため、またたくまにバナナ栽培地域へと広まった。これによってかなりの地域で主食がバナナからキャッサバへと移行したものの、バナナを嗜好しバナナを主食作物として作り続ける民族もいまだ数多く存在し、料理用バナナは依然この地域の基幹作物の一つとなっている。
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