大真国の樹立
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1215年(貞祐3年、乙亥)正月、モンゴル左翼軍に属する石抹エセンの助けを得た耶律留哥は蒲鮮万奴の駐屯していた東京遼陽府を攻略し、遼東一帯を平定した。この頃の蒲鮮万奴の動向は明らかではないが、耶律留哥との直接対決を避けて同年3月には瀋州・広寧方面で軍を率いて駐屯していたようである。一方、耶律留哥の陣営(東遼)では耶律可特哥が蒲鮮万奴の妻の李僊娥を娶ったことが問題となり、自らの地位に不安を抱いた耶律可特哥は耶律廝不らを抱き込んで耶律留哥に叛旗を翻した(後遼政権)。 東遼の内紛を好機と見た蒲鮮万奴は独自に咸平府・遼陽府・瀋州・澄州などを攻略して事実上金朝より離反し、多くの猛安・謀克がこれに従った。同年3月、蒲鮮万奴は9千の兵を率いて高麗国境に近い婆速路の境に進軍したものの、桓端が派遣した温蒂罕怕哥輦によって撃退された。4月には上京会寧府を掠奪するも、金の都統兀顔鉢轄がこれを迎え撃った。また、この時蒲鮮万奴は別に5千の兵を望雲駅攻略に派遣しているが、都統奥屯馬和尚・都統夾谷合打によって三叉里で撃退されている。5月には逆に都統温蒂罕福寿によって蒲鮮万奴の兵が大寧鎮で攻められ、殲滅された。9月には蒲鮮万奴配下の9千が宜風・湯池に出たが、桓端に敗れて潰走した。しかし、同時期に奄吉斡・都麻渾・賓哥・出台・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈隣の11猛安が蒲鮮万奴に来附しており、女真族の再結集を目指すという蒲鮮万奴の意図は遼東一帯の女真人に共有されていたようである。 遼東の大部分を平定し、自信を深めた蒲鮮万奴は同年10月、遂に「天王」と称し、国号を大真と定め、天泰と改元した。しかし、これ以後遼東では耶律留哥の東遼と離反した耶律廝不ら後遼の抗争が激しくなったためか、大真の建国から翌年の夏頃までの蒲鮮万奴の動向はほとんど記録に残っていない。ただし、高麗側の記録(『高麗史』)にはこの頃蒲察移剌都が蒲鮮万奴を破ったとの伝聞情報があり、大真国と金国の残存部隊の間で一進一退の攻防が繰り広げられていたようである。
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