大真国の樹立とは? わかりやすく解説

大真国の樹立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:54 UTC 版)

蒲鮮万奴」の記事における「大真国の樹立」の解説

1215年貞祐3年乙亥正月モンゴル左翼軍に属す石抹エセン助け得た耶律留哥蒲鮮万奴駐屯していた東京遼陽府攻略し遼東一帯平定した。この頃蒲鮮万奴動向は明らかではないが、耶律留哥との直接対決避けて同年3月には瀋州・広寧方面で軍を率いて駐屯していたようである。一方耶律留哥陣営東遼)では耶律可特哥が蒲鮮万奴の妻の僊娥を娶ったことが問題となり、自らの地位に不安を抱いた耶律可特哥は耶律廝不らを抱き込んで耶律留哥叛旗翻した後遼政権)。 東遼内紛好機見た蒲鮮万奴独自に咸平府・遼陽府・瀋州・澄州などを攻略し事実上金朝より離反し多く猛安・謀克がこれに従った同年3月蒲鮮万奴は9千の兵を率いて高麗国境に近い婆速路の境に進軍したものの、桓端が派遣した温蒂罕怕哥輦によって撃退された。4月には上京会寧府掠奪するも、金の都統兀顔鉢轄がこれを迎え撃ったまた、この時蒲鮮万奴別に5千の兵を望攻略派遣しているが、都統奥屯馬和尚都統夾谷合打によって三叉里で撃退されている。5月には逆に都統温蒂罕福寿によって蒲鮮万奴の兵が大寧鎮で攻められ殲滅された。9月には蒲鮮万奴配下の9千が宜風・湯池に出たが、桓端に敗れて潰走した。しかし、同時期に奄吉斡・都麻渾・賓哥・出台・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈隣の11猛安蒲鮮万奴に来附しており、女真族再結集目指すという蒲鮮万奴意図遼東一帯女真人共有されていたようである。 遼東大部分平定し自信深めた蒲鮮万奴同年10月遂に天王」と称し国号大真定め天泰改元した。しかし、これ以後遼東では耶律留哥東遼離反した耶律廝不ら後遼抗争激しくなったためか、大真建国から翌年の夏頃までの蒲鮮万奴動向はほとんど記録残っていない。ただし、高麗側の記録(『高麗史』)にはこの頃察移剌都が蒲鮮万奴破ったとの伝聞情報があり、大真国と金国の残存部隊の間で一進一退の攻防繰り広げられていたようである。

※この「大真国の樹立」の解説は、「蒲鮮万奴」の解説の一部です。
「大真国の樹立」を含む「蒲鮮万奴」の記事については、「蒲鮮万奴」の概要を参照ください。

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