大町弘子と自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 11:28 UTC 版)
大町 弘子(おおまち ひろこ、生年不詳 - 1931年3月20日)は、宮城県仙台市生まれ。本名は鈴木 弘子(すずき ひろこ)。デパート松屋銀座本店(現存)の店員を経て、1929年(昭和4年)、当時流行していた「脚線美女優」の募集に応じて松竹蒲田撮影所に入社。ところが伸び悩み、直ぐに女優業を辞退して蒲田撮影所の企画部員に転向するが、入社当初、ハリウッド帰りで帰国第一回主演として島津保次郎監督映画『愛よ人類と共にあれ』の撮影のため出入りしていた上山草人に、同じ郷里出身ということから目をかけられていた。しかしその心中の背景には、この上山と大町の関係を所内の悪童達が「怪しい」とゴシップを流し、それを聞いた毛利が「無責任なデマを飛ばすな!」と言って大町らをかばったのが、ことの始まりである。それを聞いた大町は毛利に傾斜するのであった。 一方、同年11月末に大阪松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)に所属していた鐘一子(後の井上雪子)が鈴木傳明の紹介で松竹蒲田撮影所に入社して売り出すが、その井上もまた毛利に接近する。したがって毛利は大町・井上の三角関係ということになったが、鈴木傳明一派からは「親分の傳明の女を横取りした」として「毛利排撃」の声が上がるという経緯があり、またこの頃に大町が肺病を患い、毛利の子を宿しているという噂も出ていた。 心中後の大町の衣服からは女優花岡菊子宛ての遺書が発見され、覚悟上の情死ということが判明した。
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