大楽騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 01:52 UTC 版)
大楽騒動(たいらくそうどう)は、長州藩で反乱を起こし、九州に逃亡してきた攘夷派の大楽源太郎率いる集団が、知事の交代を知って、新政府の陰謀から福岡藩と仏教を守ることを名目に、豊津藩・久留米藩の攘夷派や、廃仏毀釈によって追放された僧侶、さらに農民一揆とも結んで日田県庁を襲撃した事件である。大楽は日田の咸宜園出身で地元に人脈があったという。 これを明治政府転覆計画と見た新政府は、大楽一派相手に孤独な戦いを続ける野村盛秀(1870年(明治3年)12月28日任命、1871年(明治4年)2月4日着任)を救出するために、3月に、当時陸軍少将であった四條隆謌を総督とする長州藩・肥後藩連合軍を日田に派遣し、さらに隣の森藩もこれを支援した。ところが、共同出兵を命じられた薩摩藩は出兵に遅延し、四條を補佐する予定であった薩摩の大山綱良が、大楽よりも長州藩に非があるとして、軍の解散を独断で決定した。これに、大楽派の取締のために山口に戻っていた木戸孝允が、「薩摩藩が大楽を助けている」と激怒して下野する態度を見せた。これに驚いた西郷隆盛や大久保利通が、大山の行動を詫びて鎮圧の継続を命じた。これによって日田にひとまず平穏が戻ることになった。大楽ら騒動の関係者は、刑部省の指示により指定の諸藩で処刑された。
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