大平政権誕生に貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
初めての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入された1978年自由民主党総裁選挙において、田中派は現職の福田赳夫に挑む大平正芳を支持。西村英一の指示を受け、後藤田は東京都に地盤を持たない大平派に代わって大票田である東京地区での大平票を伸ばす任務を負った。後藤田は佐々木義武や浜野清吾と協力して、区議会議員を動員してリストアップした党員に対して徹底した戸別訪問作戦と電話作戦を展開した。その結果、当初東京地区は現職の福田が圧倒的有利で二位が都議会議員とのつながりを持っている中曽根康弘が二位と言われていたが、結果は大平が4割程度を抑えて二位に躍進した。後藤田の地元徳島地区でも三木派が推す河本敏夫を抑えて大平が一位であった。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。 福田派幹部は、既定日時で選挙活動を終了したが、竹下と後藤田が電話作戦を続けているのを聞きつけて「まだやっているのか」と戦々恐々した。 1979年11月、第2次大平内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官として初入閣した。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年11月、鈴木善幸改造内閣で選挙制度調査会会長。
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